人が動くのは、報酬と危険のどちらかの場合です。
それは生まれたばかりの赤ちゃんも恐怖心を持っています。
それは次の実験からわかります。
それは生まれたばかりの赤ちゃんも恐怖心を持っています。
それは次の実験からわかります。
実験の内容
ハイハイができる乳児が何かの台の縁から転げ落ちることはごくまれだ 。それは生後わずか二カ月でもう 、深さを識別する能力が芽生えるからだ 。このことは 、次の古典的な実験でもあきらかだ 。まず硬いガラス板をいちばん上にのせた 〈視覚的な崖 〉の装置をつくり 、その上に乳児をのせる ( 1 0 ) 。ガラス板の向こう半分の下は何もなく 、そのまま下に落ちてしまいそうに見える 。手前半分のガラスの下には何かが置かれ 、深さはごく浅く見える 。台にのせられた赤ん坊は 、自分の下に硬いガラス板があるのを体で感じることはできる 。だが 、彼らはどれだけうながされても絶対 、向こう側の一見危険な領域には踏み出さなかった 。母親が台の向こうはしに立って手招きしても 、結果は変わらなかった 。生まれながらの恐怖心があるからこそ 、赤ん坊は落下の危険を回避する能力を獲得した 。母親の保護とぬくもりに向かいたいという欲望も 、恐怖に打ち勝つことはできないのだ 。 〈報奨への接近 〉と 〈危険の回避 〉がせめぎあう不穏な感じを理解するには 、川の水を落ち着かなげに飲みながら 、すぐ近くで休んでいるライオンにちらちら目を配っているアンテロ ープの姿を想像してみるといい 。この 「行くべきか ・とどまるべきか 」という典型的な状況下では 、快楽に向かう力と危険を避ける力のふたつが綱引きをしている 。勝つのはたいがい 、危険を避けようとする力だ 。だが 、危険に直面しつつなお快楽に向かう度合いは 、人によりちがう 。先の実験でも 、何人かの赤ん坊は視覚的な崖の上を途中まで果敢に踏み出したが 、何人かの赤ん坊は崖のふちに近寄ろうともしなかった 。」
—『脳科学は人格を変えられるか? (文春文庫)』エレーヌ・フォックス著
実験の要約
赤ちゃんは目の前に母親がいると言う報酬を与えられたとしても、行動を恐怖が引き止めることができます。
しかし報酬と危険のバランスが人により違います。
今回の場合は崖から落ちる = 死を意味することなので、
赤ちゃんは報酬より危険が勝り、先に進むことはありませんでした。
今回の場合は崖から落ちる = 死を意味することなので、
赤ちゃんは報酬より危険が勝り、先に進むことはありませんでした。
会社の中でも起きています。
実は、会社の中でも報酬と危険が隣合わせです。
会社で失敗すれば次の危険があります。
昇進遅れる。
上司に怒られる
ボーナスが減る。
それは危険なので行動を起こさない理由になります。
会社で失敗すれば次の危険があります。
昇進遅れる。
上司に怒られる
ボーナスが減る。
それは危険なので行動を起こさない理由になります。
とはいえ成功した場合は報酬を得ることができますよね。
なので、危険よりも報酬が勝つからこそ、人を行動させることができるのです。
危険より報酬が少ない会社は、残念ながら行動しません。
頭がいい人ほど合理的にそうします。
他にも無意識に人を行動させない方法を取っている場合も多いですよね。
何かをした場合に、褒めない。認めない。挙げ句の果てには「やって当たり前だ」と言う。
これでは人が行動しなくなってしまうのは当然ですよね。
人を動かす立場の人は、総合艦隊司令長官の山本五十六のように
「やってみせ、言って聞かせて、させて見せ 褒めてやらねば、人は動かじ」
に従ってみると上手くと言うことです。
この中に、叱るの言葉はありません。
何千万人と人を扱う彼が行っていたことは合理的だったのです。
何千万人と人を扱う彼が行っていたことは合理的だったのです。
会社の中に限らず、生活の中でもこれは考え直さなければなりません。
生活の中でも起きています。
・私たちが家庭の中では、何かをしてもらって当たり前だと思っています。
家事をしてもらったのにかかわらず、当たり前だ。のような態度を取ってしまえば報酬が0の状態になってしまいます。
それに対して、家事の不備があった場合に指摘をして怒ったりすることはマイナスに働いてしまい、危険の場合の行動です。
これでは行動しないのは当たり前ですよね。
繰り返しですが、人が動くのは報酬があった場合に行う。
危険がある場合は行わないです。
なので家事をしてもらった場合は、「ありがとう」の感謝の一言を一度でも良いので言ってみる人が合理的で聡明な人素晴らしい人だと思います。
まとめ
人を動かしたいなら報酬を与え、罰は与えない。
やってみせ、言って聞かせて、させて見せ 褒めてやらねば、人は動かじ
山本五十六